名古屋市西区に伝わる信仰
![四間道](img/sub/sub_02.jpg)
名古屋市西区の家屋や軒下をよく見ると、祠が設置されていることに気付くと思います。 屋根神さまとして、火難や疫病を防いでくれると、明治初期から昭和初期に広まった信仰です。
【常にお参り】
神社へお参りだけでなく、庶民の生活を普段から守って欲しい、常にお参りができるように と祀られたのが屋根神さまです。 屋根神さまは名古屋独特なもので、幕末頃から祀られるようになったようです。 ほとんどは三神が祀られており津島神社、秋葉神社、熱田神宮が多く、なかには伊勢神宮や 国府宮を祀っているものもあります。 当初は疾病流行の恐怖から身を守るために天王信仰が起こり、そこで津島神社が祀られ、 続いてこの地にあった大火から火ぶせの神である秋葉神社が、明治時代に入り日清・日露 戦争への出征兵士の無事を祈って熱田神宮を祀るようになったようです。
【清須越し】
家康は清須から名古屋への遷府を行い、名古屋城を築城して城下町を作りました。 その際に清須からあらゆるものをこの地に移したのが「清須越し」です。 移されたのは神社や仏閣だけではなく、城下町が造成されると清須にあった地名までもが、 この地に移されました。
【浅間神社】
堀川沿いの中村区と西区の境にあるのが中橋で、そのたもとには浅間神社があります。 この神社の創建は不明ですが、木花開耶媛命(このはなのさくやひめのみこと)を祀って いる古社です。 尾張誌によると、この地に移ってきたのは1647年とされています。 境内には当時からのクスノキやケヤキもあり、保存樹に指定されています。
【四間道】
四間道は清須越し以降、商家が軒を連ねるようになりました。 堀川の水運を利用して、城下に米穀や塩、味噌、酒などをここから供給していました。 しかし1700年の大火で一帯は消失してしまいます。 その教訓から尾張藩は40年の歳月を費やし、道を四間(約7メートル)に拡張し、その道 の東側すべてを土蔵造りとしました。 土蔵は防火壁の役割も持たせてあり、幸運にも戦火で焼失することなく現在も当時の面影が 残されています。 このことが四間道の名の由来だそうです。